「ミャンマーで何が発生しているのか。ロヒンギャ報道の現場にいきたい」
その思いからバスに飛び乗り、2018年3月にロヒンギャ問題で揺れるラカイン州に向かった。古都のミャウーと州都のシットウェでのロヒンギャの現状を取材した私は、マウンドーという町を目指した。シットウェから100キロほど北に位置したマウンドーは、およそ70万人の難民を出すきっかけとなった2017年の衝突の震源地だった。
しかし州政府の渡航許可は下りず、マウンドーに行くことはできなかった。
「第9回 収容所のある街から」―シットウェで発生していること
「第10回 柵の中の生活―シットウェから―」―街中で隔離されたロヒンギャの生活
「第11回 真実を求めて」―2012年に何が起こったのかの検証
「第12回 貧困と民族問題」―貧困からロヒンギャ問題を考える
「第13回 ラカイン族の求め―複雑な情勢―」―ラカイン人とビルマ人の対立を考える
「第14回 国内避難民として生きる人々」―10万人を超えるロヒンギャの暮らす国内避難民キャンプから
「第15回 キャンプの中の生活―シットウェから―」―国内避難民キャンプで暮らすロヒンギャの生活
マウンドー行きを断念した私は、その日の午後にシットウェからヤンゴンまで向かうバスのチケットを購入した。翌朝5時、バスはシットウェを出発した。ヤンゴンまでは順調にいっても、23時間かかる。乗客の車酔いを防止するために低めに温度設定されたバス内では、映画が放映されていた。アジア・太平洋戦争を題材にしたもので、日本軍とミャンマー人抗日ゲリラの戦闘をコメディタッチで描いていた。
ミャンマーはこの戦争の激戦地で、シットウェでも日本軍と英国軍が2度に渡って(1942-1943年と1944年)激しい戦闘を繰り広げた。大戦末期には、連合国の補給路を断つことを目的とした「インパール作戦」に日本軍は失敗し、結果としてミャンマーでは18万人の日本兵が命を落としたといわれている。そうした日本側の被害は知っていても、ついぞミャンマー人の遺恨には思い至らなかった。日本兵がコケにされるコメディ映画を観ながら、自分の無知に赤面した。
鬱蒼とした密林へ日が傾き、最後の鮮やかな一筋の陽光が放たれる頃、バスはアラカン山脈のふもとを走っていた。だんだんと道路の塗装は荒くなり、車内には酸の匂いが充満し、「オエ」という嘔吐く声が反響する。通路を挟んで隣に座った少女の、ミャンマーの伝統的な化粧品である「タナカ」を付けた頬が青ざめていた。
山道の中腹で、バスがエンジン故障で停車した。降車して、道端で退屈していると、青年が「Are you Chinese?」と話かけてきた。このミャットゴイ青年はラカイン出身の27歳で、観光地である古都・ミャウーでガイドをしていた。ヤンゴンに住む兄弟を訪ねる道中だった。黄色いスカーフを首に巻いた奇異なファッションで、よく笑う。ガイドをしているだけあって、キレイな英語を話し、英語が苦手な私をタジタジにした。
「バスの修理はどれくらいかかるの?」と尋ねると、「さあね。よくあることさ」とミャットゴイ君からは気長な答えが返ってきた。3,4人の男がエンジンに水をかけたり、機械部分を工具で調整したりしていた。
結局、バスが再び動き出す時には、山道もすっかり暗くなっていた。街灯1つない暗夜の、細く曲がりくねった道をバスは行く。
長い夜が明け、目を覚ますとバスはハイウェイを走っていた。8時にヤンゴンのバスターミナルに到着した。27時間の長い旅だった。郊外のバスターミナルから街中まではさらに車で1時間の距離だったので、ミャットゴイ君と一緒にタクシーを雇って街中に向かった。通勤時のヤンゴンは混雑していて、道路上ではクラクションが鳴り響いた。信号待ちでは乞食の少年が、頼んでもいないのに窓拭きをして代金をねだった。「左へ曲がりますご注意ください」という突然の日本語にふり返ると、日本製の中古バスが児童を乗せて走っていた。瀟洒な大使館の並ぶ通りを抜けて、タクシーは河川敷に入った。川辺に立つ、壁面が灰色にくすんだ集合住宅がミャットゴイ君の姉の家だった。姉が2階のベランダから、ミャットゴイ君に手を振った。感動の再会を遂げたミャットゴイ君とはそこで別れて、私は2週間前に発ったホステルを目指した。
(後記述 翌年改めてミャンマーを訪れた折、偶然にもミャットゴイ君とバスターミナルで再会した。彼はガイドの研修でヤンゴンに来ていた)
私がヤンゴンで定宿としていたのは、ホテル予約サイトで3番目に安いボロ宿だった。それでもシットウェで宿泊したプリンスホテルよりは、よほど清潔で格安だった。オーナーに「Do you remember me?」と聞くと、「of course」と彼は言って、ハグをした。
「本当に良かった。生きて帰ってきたのだね」
前回、泊まったドミトリーの部屋に再び、割り振られた。二週間前にいた放浪者風の青年がまだ宿泊していた。「お前、まだいたの?」と苦笑した。
久しぶりのホットシャワーを浴びた後、長旅の疲れのために、眠りについた。気持ちの良い午睡は空腹によって中断された。ロヒンギャの村を一緒に回った山本竜馬君(第7回「偶然の出会いが旅を」を参照)が一足先にヤンゴンに到着していたので、連絡を取って独立広場で再会した。露天で買ったかっぱ巻きを「意外にイケるね」とつまみながら、広場で夕方まで語り合った。
夕食を終えた後、コンビニでビールの中瓶をそれぞれ購入し、独立広場に戻った。広場前では野外音楽イベントが催され、若者がヤンゴンの夜を揺らした。
ビールを半分ほど飲んだところで、山本君がポツリと「今日のビールはなんだか不味いね」とつぶやいた。たしかに亜鉛の匂いが鼻についた。
「本当は明日、成人式なんだ」と山本君が言った。彼の郷里の加賀では、雪国のためか4月の第1日曜日に成人式を行うのが慣例だった。
「出席しないのですね?」
そう言うと、山本君は複雑な表情で、旅に出る前に両親と喧嘩になったことを話した。正月に山本君が加賀に帰省した際、両親は危険地域に渡航する計画に反対した。その反対を「この世界で生きていくから」と押し切って彼は家を出た。若さゆえの力みや葛藤が私の中にも同様に存在していた。
「これを商いにできればエエのですけどね」と私は返答した。結局、半分ほど残ったビールは排水溝から地球の底に流した。私たちは日本での再会を誓って別れた。山本君は翌昼の航空便でクアラルンプールを経由して成田に帰った。
私は宿題を残していた。それはヤンゴンに住むイスラーム教徒の現状を知ることだった。山本君とヤンゴンで再会した時、2人の疑念が合致した。
「ヤンゴンでは普通にムスリムの人がいるよね」
2週間前には全く気付かないことであったが、ヤンゴンではヒジャブを纏った女性が歩き、イスラーム帽をかぶった男性がティーショップでたむろしていた。礼拝のためのモスクも頻繁に目にした。日本でのロヒンギャ報道では、迫害の理由を「9割が仏教徒のミャンマーでイスラームを信仰していること」と宗教に起因させて考えることが多い。それでは、なぜヤンゴンではイスラーム教徒が暮らすことが出来ているのか。イスラーム教徒の現状を知ることで、ロヒンギャ問題の1つの真実が見つかる気がした。(鶴)
ロヒンギャ
ミャンマー西部・ラカイン州に住むイスラム教徒。ミャンマー政府はロヒンギャを隣国・バングラデシュからの「不法移民」とみなしていて多くのロヒンギャは国籍が付与されていない。
現地住民である仏教徒・アラカン人との争いがあり、両者の間ではたびたび衝突が発生している。わけても2017年8月の衝突は大規模なロヒンギャへの迫害につながり、およそ70万人が難民としてバングラデシュに逃れた。
ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。
ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。
ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識である。