◆産業社会学部教授
「活字メディア論」では、政治や社会に関心を持った方がいいと話している。最近になって、コミュニケーションペーパーに「思想が強い」などの言葉が多い。選挙の話題を出しただけで、思想が強いのか。
ねづ・ともひこ 専門は戦後日本のジャーナリズム史。著書に『戦後日本ジャーナリズムの思想』(東京大学出版会)。思想が強いと言われるときは、大抵「主張」の強弱の物差しだ。なぜそれに、より体系的な「思想」という言葉を使う必要があるのか。
「思想が強い」は、考えが偏ってるなど、ざっくりした意味で使われている。細分化して議論していくことが学問では重要だ。「思想が強い」という暴力的なくくりは、議論する土壌を破壊する。
私は個人主義がとても大事だと思う。個人主義は、思想に立脚する。空気が読めないといわれるが、思想がないと自分では最終的な判断ができず、自分以外の物差しに依存するだろう。時代に流される根無し草になってしまうわけだ。
◇ ◇ ◇
日本は極端なものを嫌い、左右を排して真ん中に立つ「中立信仰」に寄りかかりすぎている。中立信仰は、歴史的に積み上げられてきた文化的な態度であり処世術だ。
だが時代の真ん中に立つだけでは意味がない。社会の主流的な価値観に寄りかかってしまうと、自分たちで自分たちの社会をより良くしていこう、というマインドを持てない。
より良くしていこうと議論していくと、思想は立ち上がってくる。
議論を封じる「思想が強い」の根底には、主体性の問題がある。誰かに任せたまま自分は当事者になろうとしない「観客民主主義」「お任せ民主主義」が、中立信仰につながっている。
議論の中でお互い批判し合うのは仕方ない。論争になって傷つくのが嫌だ、というリスク回避の防衛本能で、議論を「思想が強い」という言葉で封じ込めているのではないか。できるだけ粘り強く議論することが必要だ。
歴史は、参政党やトランプ米大統領のように、声を大にした人たちが熱量で動かしていく。サイレントマジョリティー(物言わぬ多数派)の多い日本の人々の主体性が問われている。
◇ ◇ ◇
メディアに中立を求める声がある。だが、メディアが中立の立場を取れば、情報発信力の強い政治権力が結果として有利になるという構造がある。
権力監視は、当然批判的な要素が強くなる。だが権力批判と権力監視は、重なっているが一線を画している。人々がその構造を学び、メディアリテラシーを身に付けない限り、メディアは理解を得られない。
なぜ不偏不党・中立ではいけないのか、なぜ権力を監視しないと社会が回っていかないのか、歴史を見れば答え合わせができる。ジャーナリズムの社会的役割を理解する人たちが増えてほしい。
(聞き手・小林)
.png)




