「ミャンマーで何が発生しているのか。ロヒンギャ報道の向こう側にいきたい」
その思いからバスに飛び乗り、2018年3月にラカイン州の州都・シットウェにやってきた。2012年に発生したラカイン族とロヒンギャとの衝突以後(第11回 真実を求めて)、街中では約4000人のロヒンギャが隔離され、10万人を超えるロヒンギャが郊外の国内避難民(Internally Displaced People)キャンプに追われていた。
「第9回 収容所のある街から」―シットウェで発生していること
「第10回 柵の中の生活―シットウェから―」―街中で隔離されたロヒンギャの生活
「第11回 真実を求めて」―2012年に何が起こったのかの検証
「第12回 貧困と民族問題」―貧困からロヒンギャ問題を考える
「第13回 ラカイン族の求め―複雑な情勢―」―ラカイン人とビルマ人の対立を考える
「第14回 国内避難民として生きる人々」―10万人を超えるロヒンギャの暮らす国内避難民キャンプから
「第15回 キャンプの中の生活―シットウェから―」―国内避難民キャンプで暮らすロヒンギャの生活
ラカイン州では「ロヒンギャ」という用語は禁句である。シットウェの携帯ショップで店員のラカイン女性と会話していた時、ふとした拍子に私が「ロヒンギャ」という言葉を発すると、女性は血相を変えて「その言葉を使わないで」と抗議した。古都のミャウーでは、ホテルの主人がロヒンギャの居住地域を教えてくれたが、同時にこう付け加えた。
「あの地域に行ってはダメだよ。もし君に何かあったら、警察が僕までしょっぴくから」
私がミャンマーに来た目的はロヒンギャの現状を取材することだった。もちろん体制側は、不都合な事実(ロヒンギャ問題)を外国人には見せたくない。メディア関係者への締め付けは特に厳しい。昨年9月には、ロヒンギャ問題を取材していたロイター通信のミャンマー人記者2名に国家機密法違反で禁錮7年の実刑判決が下った。(後に恩赦で釈放)
「日本人である私が長期拘束される可能性は低い」という算段はあったが、この国の暗部に目を向けようとする試みには常に黒い雲のような不安が伴った。
IDPキャンプ内の治安施設。闇にまぎれて撮影していると、内部から軍服の兵士4人が出てきた。「カメラを見せろ」と片言の英語で話しかけてくる。「なんて言っているのか分からない」と5分ほど拒み続けていると、諦めたのか「行け」と追い払われた。
シットウェでは、街中のあちらこちらに長銃を携えた警察官がいた。ほとんど外国人のいない街のことである。ロヒンギャの居住地域の周辺をふらつく私はマークされていただろう。「行動を見張られた上で、泳がされているのだろうか。いつか捕まるかもしれない」という恐怖があった。そして懸念は現実化した。
シットウェ郊外の国内避難民(IDP)キャンプを取材していた。このキャンプ内にラカイン人とロヒンギャが共存している村があった。ラカイン人の営む商店にも、ロヒンギャが普通に買い物に来ている。2012年にロヒンギャの強制移住が行われる前から、両者が共に暮らしていたのだろうか。
私は商店の軒先で双方の住民に聞き取りを行った。ラカイン人とロヒンギャが隣り合って座っている。象徴的な姿を写真に収めようとカメラを取り出した時、1人の大柄なラカイン人男性が現れた。「Come come」と片言の英語で言う。私はミャンマー語が分からないので、表情や所作から男性の目的をうかがうしかない。怒っているのか微妙な無表情で私の前を歩き、村の中でひときわ立派な家に連行された。
そこで待っていたのは痩身の老人だった。おそらく村長のような役職にあるのだろう。まったく英語が話せないみたいで、「座れ」と手振りで庭先の椅子を示した。
折を見て、「お気遣いなく。行きますね」という風に立ち上がると、さっきのラカイン人男性が制止した。下手に逃げるよりは、大人しく状況に任せる方が良いだろう。「これはまずいことになったな」と思った。うなだれながら座っていると、家の軒先から2人の女性がこちらを見ていることに気づいた。あの老人の孫であろうか、農村部の女性らしく、朴訥とした雰囲気で2人とも18歳くらいに見えた。視線を感じるのに、こっちが見ると視線を外す。「Hello」と呼びかけると、すっと羞恥が頬を赤面させてどこかへ行ってしまった。
銃を携えたミャンマー軍兵士(写真の人物と私を拘束した人物は別です)
20分ほど待たされて、軍服の兵士3人がやってきた。私は立ち上がって、その中で一番年配の男性に右手を差し出した。こうした時の常として友好的な雰囲気を醸成しようとしたのである。男性は私を無視して、用意された椅子に座った。その後、通訳のために呼ばれた学校教師が私の左隣に座り、総勢4人に尋問される形となった。
主に質問をしたのは、握手を拒絶した老兵だった。
「なぜここに来たのか?」と第1問。もちろんロヒンギャ問題の取材とは明かさず、「日本の古い電車が走っていると聞いて来たのだ」と答えた。(事実、IDPキャンプに隣接する鉄道路線に国鉄のキハ62という電車が走っていた)
そんな返答では納得されない。その後も「どこのホテルに泊まっているか?」「何のためにラカイン州へ来たか?」「ここ(国内避難民キャンプ)がどんな場所なのかは認識していたか?」などの質問が飛んできた。老兵は「カバンの中身を見せろ」と言った。カバンの中にはドローンがあった。用途を尋ねられたので、「遺跡の写真を撮るためだ」と答えた。携帯のカメラフォルダーも確認されたが、見られて不都合な写真はなかった。老兵は、私が背中に隠していたカメラバックを見つけた。一眼レフを取り出して、部下にフォルダーを確認させたが、ほどなく返却した。私は事前にロヒンギャを撮影していない安全なSDカードに入れ替えていたのだった。3時間の拘束の後、IDPキャンプの出口まで、荷車を搭載したバイクタクシーで身柄を輸送された。「二度と来るな」と老兵は言った。別れ際に差し出した右手は再度、拒絶された。
シットウェでの取材は停滞していた。「マウンドーに行こう」と私は思った。マウンドーはシットウェのさらに北に位置していて、バングラデシュの国境に近かった。そしておよそ70万人の難民を出すきっかけとなった2017年のラカイン人とロヒンギャとの衝突の震源地だった。この地では衝突後、大規模なロヒンギャへの迫害が起こったとされている。日本の外務省が発表している「海外安全ホームページ」ではラカイン州北部全域の危険度がレベル2「不要不急の渡航は止めてください」である一方で、マウンドー県はさらに危険度の高いレベル3「渡航は止めてください(渡航中止勧告)」が発令されていた。(2019年6月時点でも同様である) ミャンマー政府は、マウンドーへの外国人の渡航を厳しく制限していた。それでも「マウンドーで何が発生したのか。その実態を見たい」と思った。
ロヒンギャ
ミャンマー西部・ラカイン州に住むイスラム教徒。ミャンマー政府はロヒンギャを隣国・バングラデシュからの「不法移民」とみなしていて多くのロヒンギャは国籍が付与されていない。
現地住民である仏教徒・アラカン人との争いがあり、両者の間ではたびたび衝突が発生している。わけても2017年8月の衝突は大規模なロヒンギャへの迫害につながり、およそ70万人が難民としてバングラデシュに逃れた。
ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。
ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。
ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識である。