立命館大学新聞のコラム欄「海神(わだつみ)」。記者が日々の思いを語ります。

怒りは社会を変える原動力になる。憧れの人が言っていた。その通りだと思う。怒りは疑問であり、きっかけだ。
数年前、私はよく怒っていた。自分や誰かが受けた理不尽や、社会に対して。怒りが「問い」につながって、大学で学びたいことも見つかった。しかし大学生になって実家を離れると、新聞にもニュース番組にも触れなくなった。「社会」と接する時間が格段に減った。
怒ることが減り、怒るきっかけにも出会わず、感覚は鈍くなった。自分が理不尽なことをされても、受け入れていた。気付かなかったものも多いと思う。
1回生の夏、高校の担任に「丸くならないで」と言われた。再会した恩師に良い姿を見せたかった私は、大学生活を自慢げに、おもしろおかしく話していた。理不尽な話も笑って伝えた。
突っかからず、身体を丸めれば、道を速く転がることができる。目的地へ器用にたどり着くこともできるだろう。しかし、到着したそこは、果たして本当に望んだ場所なのだろうか。
新聞の購読を再開して、テレビを買って、再び「社会」に触れ始めた。また少しずつ怒り始めた。社会の形に合わせて自分を丸めれば、その時は生きやすくなるだろう。ただ、それは一時的で、疑似的なものだと思う。
社会のゆがみを黙認するのではなく、もう少し、怒っていたい。未来の生きやすさのために。「今」もきっと、先人たちが怒って、変えてきた先にある、未来だと思うから。
(井本)