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女流棋士 武富礼衣さん インタビュー 「タイトル獲得へ一歩一歩」【前編】

日本将棋連盟に所属する女流棋士・武富礼衣(たけどみれい)女流初段(心理4)が本紙のインタビューに応じた。武富さんは2018年に女流棋士となり対局に挑む傍ら、将棋普及活動にも尽力している。現在、同連盟が開設した新将棋会館建設クラウドファンディングチームの一員としても活動中だ。(村形、取材日:11月22日)

武富礼衣さん 関西将棋会館 御上段の間にて

―将棋との出会いについてお聞かせください。
将棋を始めたきっかけは、5歳のときに父と兄が家で対局をしていたことです。当時は、とにかく3歳上の兄がすることに興味を持っていました。そのため父と兄が将棋を楽しんでいる姿を見て、自然と将棋に興味を持ち始めました。

まだ5歳だったので、父は私が将棋をできるとは思っておらず、最初はルールを教えてくれませんでした。父と兄の対局を見て、自然と駒の動かし方などを自分で学びました。その後、父に教えてもらうようになり、父と兄と私で将棋盤を挟むようになりました。

その1、2年後、小学1年生の時に、地元の佐賀県で「将棋の日in佐賀」というイベントがあり、そのとき初めて家族以外の人と対局をしました。しかし私は駒の動かし方を知っていた程度だったので、結果は惨敗です。この経験が大きな刺激となり、それから本格的に将棋に向き合うようになりました。

―女流棋士になるまでは、どのような道のりだったのでしょうか。
2分の1成人式のときに未来の自分に書いた手紙には「将棋の女流棋士になりたい」と書いてありました。また小学2年生のときに書いた作文には「自分は将棋を指すことが一番好きです」というようにも書いていました。そのため小学2、3年生のときには、女流棋士という職業も知っていて「女流棋士になりたい」という夢をぼんやりと描いていたように思います。

契機は高校進学前の中学3年生のときです。自分の将来を具体的に決断しないといけない時期だったので、自分の中で葛藤がありました。もちろん将棋は好きでしたが、当時は将棋一筋ではなかったのです。習い事としてピアノも続けていて、部活動にも入っていました。同時に塾にも通っていました。そこで自分は何が本当に好きなのかということを、半年間ほど、ずっと考えていました。そして自分を見つめ直して「自分は将棋が一番好き」ということを確信したので、今の師匠になる中田功先生(現八段)に弟子入りをお願いしに行きました。

しかし、そのときはまだプロの道やその厳しさはわかっていなかったように思います。弟子入りをお願いした際に中田先生に「遅い」という厳しいお言葉を頂きました。先生は私がピアノなど将棋以外の活動をしていたことをご存じで、覚悟が遅かったという意味の一言です。そのため、先生は女流棋士を目指すと思っていなかったようです。その場で私は「色々なことをした上で、自分は将棋が好きだと気づいたので、この道に進みたい」ということを伝え、了承いただきました。そして師匠からは「これから女流棋士になることを目標とするのではなく、タイトルを目標に、覚悟を持つように」というお言葉を頂きました。今思うと「遅い」という言葉も、覚悟を持つように言ってくださった、愛のあるお言葉でした。それからは高校に通いながら、女流棋士の養成機関である研修会に半年間ほど通い、女流棋士を目指し打ち込んでいました。

―研修会では苦労されたのでしょうか。
今考えると、当時はよくやっていたなと思います。関東と関西と東海に3つの研修会がありましたが、佐賀から東京に通っていました。研修会は2週間に1度、週末にあります。土曜日に東京に行き、日曜日に4局戦い、その夜に飛行機で佐賀に帰り、月曜日に学校に行くという生活でした。

高校では進学コースに所属していて、勉強と将棋の両立が必要でした。学校の課題も多く、月曜日から定期テストや模試ということもありました。研修会で勝っているときは気持ちが良く「勝ったし頑張ろう」というように学校に行けました。

研修会の昇級は総合成績ではなく、直近の対局結果によって決まります。連勝した後の例会で黒星を多く積んでしまったら、1カ月かけて積んだ白星も全部消えてしまうことになります。そのようなときには「自分は何のためにここに来たのだろう。1カ月かけて自分が積んだ白星も、今回わざわざ飛行機に乗って消しに来たのか」という罪悪感や後悔、情けなさ、家族への申し訳なさを感じることがありました。また例会が終わると学校の勉強もしなければならないという重圧感のようなもので、精神的に辛かった時期もあります。佐賀県から女流棋士となった前例がなく、また近くにプロを目指す人もほとんどおらず、孤独感も感じていました。学校にも将棋に詳しい人はいなかったので、自分との戦いでした。

―白玲戦や女流順位戦が始まったという近年の女流棋界の変容を踏まえて、ご自身の現状をどのように分析されているのでしょうか。
白玲戦ができると聞いたときは嬉しい、楽しみといった期待の気持ちが大きかったです。その反面、これまでにはなかった、目に見える形で序列がつくことに対する、不安や「頑張らなきゃいけないな」という身が引き締まる思いもありました。

前期のリーグ戦では、順位がつくということで他の棋戦とは一味違った緊張感があり、女流棋士たちの将棋に対するモチベーションが、より一層高まったように感じています。前期の対局は、重圧などいろいろな思いを抱えるなかでの将棋となり、学ぶことが多かったです。自分の弱いところが対局で明らかに出てしまったり、反対に一生懸命準備をするからこそ、伸びている部分を客観的に見て手ごたえを感じたりしました。

トップの女流棋士の方ともリーグ戦で戦うことができました。自分が上位に行くためにはこの人にも勝たないといけないと思いながら、全力でぶつかりました。その結果、自分との実力差を的確に感じることができ、自分の課題が顕著に現れました。

リーグ戦を戦っていた時期は他の棋戦でも好調で、連勝していました。調子が良かった分、目指していたA級ではなくB級となってしまったことが、とても悔しかったです。しかし、その後の自分の落ち込んだ時期の成績を見ると、B級に入ったことが御の字かなと思うような結果を出してしまっています。成績に波があるというのは、まだトップに及ばないところです。トップであれば波はなく安定感があります。常に安定して勝てる実力をつけないと上にはいけないと考えています。A級に上がれないと白玲というタイトルは目指せないので、これからはB級という場での修業期間であるのかなと思っています。

(後編に続く)

武富礼衣(たけどみ・れい)女流初段

1999年5月25日生まれ。佐賀県佐賀市出身。中田功八段門下。2016年、女流3級。2018年、女流2級。同年、女流初段。女流棋士番号は60。

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