◆国際関係学部教授
「思想が強い人」という言い方は、自分の考えを論理的、体系的に話しはするものの、人の話に耳を貸さず、「対話の余地がないな」と感じさせる人のことを指す際に使われていると思う。リベラルな思想傾向の人に向けられることが多い、という感じもする。なぜか?
しらと・けいいち 毎日新聞記者などを経て、2018年から現職。著書に『ルポ 資源大陸アフリカ』(東洋経済新報社)など。ジェンダー、人種、障害の有無などに基づくあらゆる差別が許されない社会で、教育によって人を選別することだけはむしろ奨励されている。そういうシステムの中で「優秀」とされた人の多くがリベラルな思想を持ち、論理的思考に優れ、論争に長けている。
だが、そういう「優秀な」リベラル・エリートたちが、社会の急激な変化に対する庶民の漠然とした不安に心を寄せ、モヤモヤした想いを受け止めているかといえば、大いに怪しい。
むしろ、「人は皆勉強すればリベラルになるんだ」とでも言いたげな「説教臭さ」や「上から目線ぶり」を感じさせる人が少なくないと、私は思う。
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モノゴトを論理的、体系的に考え、リベラルな思想を持つことは重要だが、リベラルで論理的でさえあれば社会のさまざまな問題を解決できるわけではない。リベラルな「正論」で相手を言い負かせば、諭戦に勝ったことにはなる。
しかし、それだけでは、「敗者」のレッテルを貼られた人たちは「勝者」のリベラル・エリートに屈辱感を抱き、たとえ相手の理屈が正しいと分かっていても、心の底で相手を憎むだろう。
論戦の「勝者」も「敗者」も同じ社会を生きていかなければならない。特に今のように分断が進んだ状況では、論理で相手を屈服させるのでなく、わだかまりをほぐしていくことが極めて重要である。
リベラル・エリートたちの鈍感ぶりと傲慢さに対する人々のささやかな抵抗が、「思想が強い人」という言葉に込められているように思う。
(聞き手・吉江)
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