第4回はラカイン人活動家のザーミンカングさんへのインタビューからラカイン人の主張を見てきた。ザーミンカングさんの主張を要約すると「ロヒンギャはミャンマーの民族ではなく、ベンガルからの移民だ。ロヒンギャの語る歴史は作り話である。彼らはミャンマーの法ではなくイスラーム法に従い、モスクでは宗教指導者が対立を煽っている。われわれは平和な仏教徒であり、ロヒンギャ問題の原因は彼ら自身にある」といったものである。(第4回はこちら)
今回はラカイン人の主張に対するロヒンギャの考えを在日ビルマロヒンギャ協会のアウンティンさん(51)に聞く。
第4回「食い違う主張―ラカイン人の視点―」
新宿駅から湘南新宿ラインと東武伊勢崎線を経由して北におよそ1時間半。大田に続く東武小泉線、足利へ続く東武伊勢崎線、佐野へ続く東武佐野線が分岐する場所に群馬県館林市がある。この館林には日本に住むおよそ300人のロヒンギャのうち、250人ほどが暮らしていて日本におけるロヒンギャコミュニティの中心地となっている。館林に住むロヒンギャへの取材は後述する予定だ。
アウンティンさんは民主化運動の際にミャンマーを離れ、タイ、マレーシア、バングラデシュ、サウジアラビアを経て1992年に来日した。日本語はかなり流暢に話す。アウンティンさんは、ラカイン州北部のバングラデシュ国境に近いマウンドーの出身であった。このマウンドーは2017年8月におよそ70万人の難民が発生する原因となった衝突が発生した場所で現在も外国人の立ち入りが制限されている。アウンティンさんの母親が未だマウンドーに、姉はバングラデシュのクトゥパロン難民キャンプにいるという。
アウンティンさんは日本で貿易関係の会社を経営する一方でバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプに学校を建設するなどロヒンギャのために活動している。
「私は歴史の専門家ではないから、歴史は話せないよ」とした上で「見てきたものなら話せる」と取材に応じた。
「ロヒンギャはベンガル人じゃないよ。アラカン王国時代からロヒンギャはラカイン人と一緒に暮らしてきた。歴史を見れば分かること。誰も歴史を嘘だと言うことはできないよ」
上智大の根本敬教授も「ロヒンギャの起源はアラカン王国時代に居住していたムスリムである」と述べていて、アウンティンさんの主張と一致する。ただ根本教授が「ロヒンギャには4つの流入時期がある」と説明するようにロヒンギャの歴史は複雑であり、ミャンマー人のロヒンギャに対するイメージは1971年のバングラデシュ独立の混乱期にベンガルから流入した「第4の層」の人々である。
この第4層の人についてアウンティンさんは「たしかに東パキスタン(現バングラデシュ)から難民は来たけれど、みんな帰ったよ。結婚して残った人はいるだろうけれど少数。バングラデシュの経済状況はラカイン州より良いから残る意味はないよね」と話す。
前回、掲載したラカイン人活動家のザーミンカングさんへのインタビューから感じたのは、イスラームに対する嫌悪感が差別の1つの要因になっていることだった。ザーミンカングさんはこう言った。
「ロヒンギャはミャンマーの法ではなく、イスラーム法に従う」
この主張についてアウンティンさんは語気を強めて反論する。
「ラカイン人はいつもそんなことを言うよ。誰がラカイン人の主張を聞く? 世界(ミャンマー以外)は信じないよ。われわれイスラームは宗教関係なく一緒に暮らすのが希望だよ。
『ロヒンギャが土地と自治権を求めている』というのは全然違う。私たちが求めるのは国籍・安全・他の少数民族と同じ移動の自由だよ」
ビルマ(ミャンマー)が独立した1948年から、クーデターによって軍事政権が誕生する1962年までビルマ政府はロヒンギャを自国民と認めていた。独立後、初の議会にはロヒンギャ出身の議員が存在し、またロヒンギャという民族名を用いて国営ラジオで短波放送を行うことも認められていた。
「1962年の後に軍政がヘイトスピーチを行って人々に憎しみを植え付けてしまった。『ロヒンギャは違法でバングラデシュから来た人だ』と。昔は一緒に学校行ってる。仕事してる。全然問題ないよ」
このヘイトスピーチには過激派仏教徒集団のマバタが深く関わっているという。マバタはイスラーム批判によってミャンマー国内で支持を広げてきた仏教徒集団であったが、社会を混乱させる不穏分子として、現在は活動を禁止されている。それでも未だにマバタの後継団体がインターネット上などでイスラームへの中傷を繰り広げている。
「マバタのやり方は本当に信じられないよ。宗教の名前を使っているから強い。お坊さんの国だから彼らが言えばイエスになる」
アウンティンさんによると、ミャンマーで独裁政権に抗議する民主化運動が全土的に広がった1980年代には、ロヒンギャもビルマ人やラカイン人と共に運動に加わった。実際に当時、高校生だったアウンティンさんも民主化運動が原因でミャンマーを離れた。1992年に来日してからは、日本在住のミャンマー人の民主化組織「在日ビルマ人協会」の活動に参加していた。
「協会の内部で民族差別はなかったね。どの民族も一緒になってミャンマーの民主化のために活動してきたよ。来日してから10年ほどは、ビルマ族や他民族とも良い関係だった。」
転機となったのは2005年頃、迫害によってミャンマーから他国へとボートで逃れるロヒンギャ(ボートピープル)の存在に国際社会の関心が集まったことだった。日本にある他民族の団体はミャンマー政府の立場に寄り、ロヒンギャとは意見が合わなくなった。在日ロヒンギャ協会の活動もロヒンギャへの迫害が厳しくなる中で性格が変わってきたという。
「もともとはミャンマーの民主化のために活動してきたけれど、差別が強くなってからは民族の平和・人生のための活動になったよ。デモ活動をやったり、外務省や日本政府に請願したりね」
アウンティンさんは2015年に日本に帰化した。
「2012年にシットウェ(ラカインの州都)で衝突が発生して多数の国内避難民が発生したよね。その時に自分はミャンマーに帰ることができないのだと帰化を決めた。それは子どものためでもあるし、日本で仕事することも考えたよ」
アウンティンさんには日本での生活がある。現実的な選択として帰化することを決めたのだろう。後日、電話取材の折にアウンティンさんはこう話していた。
「私たちは日本に来てからもアウンサンスーチーのために頑張ってきたよ。それでも私たちの人生は戻らなかった。国籍も自由もロヒンギャ民族の名前も」
(鶴)
次回からは再びミャンマーでの取材をお届けする予定です。
ロヒンギャ
ミャンマー西部・ラカイン州に住むイスラム教徒。ミャンマー政府はロヒンギャを隣国・バングラデシュからの「不法移民」とみなしていて多くのロヒンギャは国籍が付与されていない。
現地住民である仏教徒・アラカン人との争いがあり、両者の間ではたびたび衝突が発生している。わけても2017年8月の衝突は大規模なロヒンギャへの迫害につながり、およそ70万人が難民としてバングラデシュに逃れた。
ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。
ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。
ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識である。