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【連載】ロヒンギャへの道 第8回 「ロヒンギャと近隣住民の関わり」

前回のあらすじ

新聞報道でロヒンギャ問題を知り、ミャンマーで何が発生しているのか関心を抱いた私は最大の都市ヤンゴンからバスに乗り丸2日かけて西部のラカイン州にある古都ミャウーにたどり着いた。パゴダ(仏塔)が立ち並ぶ、美しいミャウーの郊外にロヒンギャの暮らす村があった。

第6回「第三者として思うこと」

第7回「偶然の出会いが旅を」

立ち並ぶパゴダ

ミャウー郊外の村に住むロヒンギャの生活を取材してきた。レンタルした日本製の古い自転車(埼玉県警の防犯登録が貼っていた)でミャウーから1時間ほどかけてロヒンギャの村に通っているうちに村人ともだんだんと顔なじみになっていた。特に子どもたちは突然の外国人の来訪に驚きながらもレンズに向かって人懐っこい笑顔を見せた。

そうした中にあっても超えられない壁を感じる瞬間があった。私がミャウーに帰る時、子どもたちは「byebye」と手を振りながら自転車を追いかけてきた。大人も微笑ましげにその様子を見ているのだが、村からミャウーに続く道路に出た瞬間、大人は血相を変えて子どもたちを呼び戻した。そこに透明な壁があるように子どもたちは歩みを止めて、それでも自転車で去る私に向かって手を振っている。振り返ると子どもたちは笑顔だった。それでもどこか諦観を感じさせる表情をしていた。自分の運命に対する屈託と、それを覆い隠すような無邪気さが危うく共存していた。

私たちを分かつ透明な壁ははっきりと存在していた。町のホテルに戻り、いずれは日本に帰ることができる「私」と、村から出ることが許されない「子供たち」。村に面する河はベンガル湾に注いでいたが、ロヒンギャの子どもたちが住むのは半径2キロほどの小さい世界だった。

ムンムンさんが教鞭を取る学校。5-12歳の子どもが学んでいる。この村に12歳以後の児童のための学校はなかった。

この村からロヒンギャは出ることが禁じられていた。村で英語教師をしているムンムンさんは「教育が足りないし、医者もいない」と訴えかける。ほとんど自給自足の生活を強いられていた。しかし村外から完全に孤立しているわけではなかった。例えば一部のロヒンギャは携帯電話を有しているし(電波は微弱でインターネット接続はほとんど不可能だが)、村では製造できない生活用品(鉄製のバケツや袋詰のコーヒーなど)も存在していた。

「こういった物品はどこから来ているのか?」とムンムンさんに尋ねたところ「明日の朝に来れば分かる」と言われた。

翌日、空が白け暁がパゴダを照らす頃、バイクタクシーの運転手に15000チャット(約1100円)を払って村に向かった。

ラカイン人の店で買い物をするロヒンギャの女性

道路沿いにヒジャブ(イスラーム教徒の女性が髪を隠すために被る)を身に着けた女性の一群が見えた。そこには市場が開かれていて、ロヒンギャとラカイン人が顔を突き合わせて野菜や果物の売買をしていた。

ラカイン人の経営する服屋で衣服を手に取るロヒンギャの女性

ミャウーの南にあるミャンブワイという小さな町(ガソリンスタンドといくつかの商店があるだけの)ではロヒンギャが路上に出たり、ラカイン人の営む服屋で衣服を手にとっていた。近郊にあるロヒンギャの村から生活用品の買い物に来ていた。

ただ、こうしたロヒンギャとラカイン人の営みも政治状況の変化に影響されるものであった。

ミャウー近郊のロヒンギャの村を6度訪れた写真家の新畑克也さんによると、2017年8月にラカイン州北部で発生したロヒンギャとラカイン人の衝突直後は、発生地から離れたミャウー近郊でも両者の交流が規制されたり、市場が閉鎖されたりした。またラカイン人からロヒンギャに対して物品を販売する時に価格が通常よりも釣り上げられることもあるという。それでも北部の迫害が激しい地域と比べると両者の関係は良好である。

シットウェのシンボルである時計台

「他の地域では何が発生しているのか?」

 

私はこの村のロヒンギャに別れを告げて、ラカイン州の州都であるシットウェに向かうことにした。シットウェでは2012年に発生したレイプ事件の後、ロヒンギャは街の中心部にある収容所と郊外の避難民キャンプに閉じ込められていた。(鶴)

 

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ロヒンギャ
ミャンマー西部・ラカイン州に住むイスラム教徒。ミャンマー政府はロヒンギャを隣国・バングラデシュからの「不法移民」とみなしていて多くのロヒンギャは国籍が付与されていない。現地住民である仏教徒・アラカン人との争いがあり、両者の間ではたびたび衝突が発生している。わけても2017年8月の衝突は大規模なロヒンギャへの迫害につながり、およそ70万人が難民としてバングラデシュに逃れた。ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識である。

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