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【文化雑感】知識人死して、言論も死す?

2015年6・7月号より

 

現在の日本の言論状況は、決して高次な水準だとはいえないだろう。特にネット言論は、確かな知識に基づかない論評や感情論であふれかえっている。

では、ネットを中心とする言論の在り方はいつ始まったのか。その萌芽(ほうが)は1990年代にあった。90年代は言論活動の在り方が、大きく変質する兆しとなる出来事があった。

 

一つは戦後日本の言論界を支えた多くの知識人が死去したことだ。丸山眞男が96年、川島武宜が92年、大塚久雄が96年、福田恆存が94年、司馬遼太郎が96年に死去した。

もう一つは95年にウィンドウズ95日本語版が発売されたことだ。これは現在のインターネット社会の起点となった。

以上のウィンドウズ95の発売と知識人たちの死は、言論活動の媒体が新聞・雑誌からインターネットへ、担い手が知識人から大衆へ、と移行したことを暗示しているように思えてならない。

それまで言論活動は、知識人によって新聞や論壇誌などを通じて、上からの啓蒙という形で行われていた。しかし、90年代以降のネットという新たな言論空間の登場により、自分の考えを誰でも自由に発信できるようになった。つまり上からの言論に対して、下からの言論が実現した。

ネット言論については、前述したように現在さまざまな問題が生起している。どれも送り手の稚拙さや無責任さからくるものが多い。

現代は、昔と違い誰でも言論の送り手になれる時代だ。ならば、より多くの人が、思考の基礎に知性や教養が必要なはずだ。ネット言論の時代だからこそ、改めて知性を養い、それを基に思考し、表現することの重要性が認識される必要がある。「知識人死して、言論も死す」とはならないようにしたい。 (福井優)

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