「ミャンマーで何が発生しているのか。報道の向こう側にいきたい」
その思いからバスに飛び乗り、2018年3月にラカイン州の古都・ミャウーにやってきた。パゴダの立ち並ぶ美しい町の郊外でロヒンギャと出会った私は、さらなる情報を求めてラカイン州の州都・シットウェに。ベンガル湾に面した首府ではロヒンギャが隔離されていた。
2012年にラカイン州で発生したロヒンギャによる仏教徒女性(ラカイン人)へのレイプ事件が、シットウェでのロヒンギャとラカイン人との共存関係を破綻させる原因となった。レイプ事件の後、仏教徒(ラカイン人)による苛烈な報復によって、およそ12万人のロヒンギャがシットウェ郊外に国内避難民として逃れ、街の中心部に残ったおよそ4000人のロヒンギャは柵に囲まれた狭い地域(アウミンガラ)に押し込められた。
元凶となったレイプ事件についてはロヒンギャの男性3人がラカイン人仏教徒の女性をレイプした後、殺害したといわれている。こうした見方について疑問を呈す人物もいる。
在日ロヒンギャ協会のアウンティン氏は「殺害されたラカイン人女性は喧嘩が原因で夫によって殺害された。ロヒンギャは女性の亡骸を田んぼで見つけ警察に届けに行ったのだよ。それなのに『ロヒンギャが殺害した』という話が捏造された」と憤慨する。
また上智大学教授の根本敬氏は「レイプ事件そのものは真犯人が誰であれ、事実だった」としながら、非常に信頼できる筋からの情報として「逮捕されたロヒンギャの1人はラカイン人家庭に養子に出されて仏教に改宗していた」と話す。
この事件の直後、政府は国内報道を制限し外国メディアの取材も認めなかった。そうした中で反ロヒンギャの感情が広まり、大規模な迫害に繋がった。上記の2説は憶測の域を出ない話であるが、ミャンマーの言論統制が事実関係の認定を困難にしている。
ミャンマー国内においてロヒンギャに関する報道は厳しく取り締まられている。昨年9月には、ロヒンギャ問題を取材していたロイター通信のミャンマー人記者2名に対し、国家機密法違反で禁錮7年の実刑判決が下った。(今年4月にはミャンマーの最高裁が記者側の上訴を棄却した)
ドキュメンタリー作家の久保田徹氏(23)は今年2月、東京都内で催された「ロヒンギャとフェイクニュース」と題するトークイベントの中で、フェイスブック上でのプロパガンダ(反ロヒンギャ)の存在を指摘した上で「偽の写真などを用いて、ロヒンギャを陥れる印象操作が行われた」と述べた。ミャンマーではフェイスブックが広く一般大衆の間で使用されている。その影響力を悪用して「民族対立を煽る動きがある」(久保田氏)
およそ70万人の難民を出すことになった2017年の衝突。この際にもミャンマー政府は、ロヒンギャへの差別的な言説を統制しなかった。そうした中で、印パ戦争時の写真を「ロヒンギャによる虐殺の様子」として転用するなどフェイクニュースが拡散され続け、ロヒンギャへの差別感情が増幅した。
2012年にラカイン州で発生したレイプ殺害事件についての詳細は判然としない。ただ根本氏が「火を点ける人物がいなければ迫害は発生しなかったはずだ」と示唆するように、この事件を奇貨として民族対立を煽った存在がいたことは容易に想像できる。
2012年の衝突以後、シットウェではおよそ12万人のロヒンギャが郊外の国内避難民キャンプに追いやられ、街中に残ったロヒンギャは長銃と金属柵によって隔離されるという状況が措定された。この状況をラカイン人側はどう見ているのか。欧州系NGOのスタッフとして働くラカイン人女性はロヒンギャの現状について「(ラカイン人同士で)議論することはないけれど、誰もが認識している」と漏らす。それでも公の場でこの問題を話すことはない。人々の良心を飼いならすように、ロヒンギャへの隔離政策は維持され続け、柵のある生活が日常と化した。前出の女性は加えて「ラカインはとても貧しくて、日々のしごとに追われているのでロヒンギャ問題を考える余裕はない。それにもう7年も経っている」と話す。確かにラカイン州の貧困率は78%とミャンマー国内(平均37.5%)でもっとも高い。(世界銀行2014)
ロヒンギャとラカイン人との衝突は経済的困窮が原因だと考える人もいる。次回はラカイン州で学校建設などの事業に取り組むNPO法人リンクトゥミャンマー(横浜市)とラカイン州での教育充実や女性への職業訓練など包括的な支援を行うNGOブリッジエーシアジャパン(BAJ)への取材を通して、経済面からロヒンギャ問題を見ていきたい。(鶴)
ロヒンギャ
ミャンマー西部・ラカイン州に住むイスラム教徒。ミャンマー政府はロヒンギャを隣国・バングラデシュからの「不法移民」とみなしていて多くのロヒンギャは国籍が付与されていない。
現地住民である仏教徒・アラカン人との争いがあり、両者の間ではたびたび衝突が発生している。わけても2017年8月の衝突は大規模なロヒンギャへの迫害につながり、およそ70万人が難民としてバングラデシュに逃れた。
ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。
ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。
ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識である。
※「MYANMAR Ending poverty and boosting shared prosperity in a time or transition」より