立命館大学新聞のコラム欄「海神(わだつみ)」。記者が日々の思いを語ります。
指折り数え、両手で収まりきるほどの年齢だったころ。高校生ですらひどく大人びて見えたし、身近な大人である両親や学校の先生は自分にとって絶対的な存在のように感じられていた。大学生になり、自分が大人に近づいてきた段階で、両親も学校の先生も自分と変わらない一人の人間なのだとようやく理解できるようになった。
着々と、母親が自分を産んだ年齢に近づいている。すでに結婚や子育てという選択も現実的な年齢になっていて、昔は途轍もなく大きい存在のように感じられた先生も、今となっては職業選択の一つになり得てしまっている。親にも先生にも、自分の意思でなれる年齢になってきているのだ。そうはいっても、自分が親や先生になっている未来はなかなかに想像しがたく、年齢だけが先行してしまっているような感覚がある。
大人への明確なスタートラインなどない。大人といえる年齢になったとしても、友達と話す内容はいつまでたっても大して変わらないし、「大人になったら解決するだろう」と思っていた悩みは今も私の中に残っている。それでも、小さなころの私が今の私を見たら「大人だ」と思うのだろう。
かつて想像した「大人」という像に、今の自分がなれているとは思えない。この先何年たっても似たようなことを思うのかもしれないが、少しずつ成長していることは確かだろう。変わらない自分も受け入れながら、一歩ずつ進んでいきたいと思う。(竹内)