立命館大学新聞のコラム欄「海神(わだつみ)」。記者が日々の思いを語ります。
小学生の頃から使っていた茶碗が割れた。特に丈夫な作りという訳でもなかったが、この10年間、ほぼ無傷で毎日食卓に並んでいたものだ。それが突然粉々になるとは、心なしか嫌な予感がする。頭の隅で「茶碗を割ると不吉なことが起きる」という迷信を思い出した。
唐突な出来事を、何かの前触れと考えてしまう心理には、人間の防衛本能が関係しているのではないだろうか。人は未知の物を恐れ、先々に待つ困難から常に身を守ろうとしている。これからもっと悪いことが起きるかもしれない、という考えは、それを予見した、という安心感を生み、こんな不注意がもっと大きな失敗につながると思えば、気を引き締めて、ミスを減らすよう努めることができる。鼻緒が切れたり茶碗が割れたりすることが不吉とされる迷信には、物を大切にしろ、という戒めの他に、用心して生きろという教えが隠されているのかもしれない。
4月15日、大阪府からの要請を受け、本学はBCPレベルの引き上げを決定した。あまりにも急な判断に、教員を含めた大勢が混乱した。この突然の騒動は、一体何の予兆だったのだろうか。WEB授業の継続やBCPレベルの見直しなど、その後も大学からの通達は続いている。しかし、それがいつ我々のもとに届くのか、学生側が把握することはできない。
破片を片付けた後、気になって迷信のことを調べてみた。すると「運気上昇の兆し」「新しいことのはじまり」など、不吉なことが起こるという説と同じくらい、茶碗が割れることを吉兆と捉える人は多くいるようだ。不運な出来事も、捉え方とその後の行動次第で良し悪しが変わってくる、ということだろうか。ならば、大学側の判断をどう捉え、このコロナ禍をどう用心して生きるか。それが一連の本学の動きを凶兆とするか吉兆とするか、決めるのかもしれない。(波多野)