立命館大学新聞のコラム欄「海神(わだつみ)」 記者が日々の思いを綴ります。
自由とは、何と不自由であることか。大学に入ってから、そう思う場面が増えた。大学生にはさまざまな自由が許されている。服装の自由、授業選択の自由、アルバイトの自由。高校時代を、規定の制服と決められた時間割と厳しい校則に縛られて過ごした私は、そんな「自由」な大学生活にずっと憧れていた。しかし、入学から1年も経つと、毎朝着ていく服の組み合わせを考え、授業スケジュールを自分で管理する生活が面倒になってきた。化粧や受講登録に失敗したことだって何度もある。辞書で「不自由」と引くと「思うようにならないこと」と出てくるが、まさにその状態だ。
人は、ある程度決められた道を進む方が楽なのかもしれない。縛られるということは、同時に守られることでもある。「こうすれば間違いない」という保証の下に生きられたら、どんなに幸せなことか。だが社会は自由主義であり、自由に選んだ結果の責任は全て自分に返ってくる。
社会には、大学とは比べものにならないほどの自由が溢れているだろう。今の私たちに許された「限られた自由」を精一杯楽しむこと、またそれに苦しむことは、社会に待ち受ける「際限ない自由」と付き合っていくための予行練習なのかもしれない。
このコラムの提出締め切りが、15分後に迫っている。家に籠もりっきりの生活にはあまり変化がなく、題材がなかなか思い浮かばなかったのだ。他の記事と同じように最初から書くことが決まっていれば、こんなに時間はかからなかっただろう。自由とは、何と不自由であることか。(波多野)