「ミャンマーで何が発生しているのか。ロヒンギャ問題の現場を見たい」
その思いからバスに飛び乗り、ラカイン州に暮らすロヒンギャの現状を取材した。ラカイン州からヤンゴンに戻り、ロヒンギャと同じくイスラームを信仰しながらミャンマー国籍を持つ「ミャンマームスリム」の取材を終えた私は日本に帰国することを決めた。
ヤンゴンでの取材を終えた私は、バンコクに向かう航空券を購入した。日本に帰る前にバンコクでどうしても会いたい人がいたからだった。タイの首府であるバンコクはこの旅の出発地点であり、もっとも印象に残った都市でもあった。
2018年2月、私はバックパックを担いで、日本を出た。その時からロヒンギャへの関心を持っていたが、海外経験がほとんど無い中で危険地帯であるラカイン州に赴くことに躊躇いもあった。そこでバンコクから2ヶ月かけてインドシナ半島の周縁5カ国(タイ→カンボジア→ベトナム→ラオス→チェンマイ(タイ)→ミャンマー)を回り、東南アジアの雰囲気に慣れた後でラカイン州に向かったのだった。
ヤンゴン国際空港での搭乗手続きを終え、搭乗ゲートが開くのを待っていると黄色い僧衣を着た10人ほどの僧侶集団がやってきた。その僧侶に対して、空港職員が膝を折って手を合わせる。その様子は崇高さというか、一種の感慨をもよおすものだった。
タイもミャンマーも熱心な仏教徒の多い国である。タイの寺院でテーブルを挟んで僧侶と話をしている時、中年の女性がお茶を運んできた。女性がカップを2つとも私の手前に置いたので「なぜ僧侶の前には置かないのだろう」と不思議に思っていると、僧侶が1つを手繰り寄せて「タイでは女性が僧侶に触れてはいけないのです。だから女性は、あなたの前に2つのカップが置きました」と私の困惑を解いた。
2時間のフライトでバンコクのドンムアン空港に到着した。冷房の効いた空港から出ると、倦怠感のようなジメリとした熱気が私の体を包んだ。2か月前(2月の初め)のバンコクは、乾季で気温もそれほど高くなかったが、今(4月の初め)は暑季で湿度も高かった。市街地行きのバスを探す間にも空気中の湿気がじっとりと首筋を濡らすのを感じた。バスに乗りこんでほどなく降り始めた雨は、中心部に近づくにつれて本降りになった。
バンコクの金融街シーロム通りに近い、旅の初めに泊まった宿に向かった。空室があり、ドミトリーの2段ベッドの上段をあてがわれた。私にとっては思い出深い宿であったが、顔なじみだったスタッフは、私が2ヶ月前に宿泊したことをすっかり忘却していた。
バンコクの夜が暮れる。私はホテルを出て、歩いて10分ほどの所にある別のホテルに向かった。タイ語で「王室の邸宅」を意味する、その高級ホテルは一泊の宿泊料が、私の投宿する安宿の20日分に相当した。中近代の王朝の軍隊を模したドアーマンに扉を開けてもらい、ロビーのソファに腰かける。
18時半にここでMさんと会うことになっていた。Mさんとは、2ヶ月前、初めてバンコクに来た日に日本人会館のレストランで知り合った。50歳くらいの日本人駐在員で、バンコクには2度目の長期出張だと話していた。2ヶ月前には毎晩のようにバンコクの様々な顔を見せてもらった。——香木店やケバブ屋が並ぶアラブ人街、100人に及ぶ素人女性が一時のお金を得るために春を売ろうと集まってくるテーメー喫茶(詳しくは本紙記事「バンコクの性産業と日本人」を参照)——バンコクに魅了されたのは、Mさんの先導があったからだった。
私がバンコクを発った後も、折に触れてメールをくれた。Mさんは理系の技術者であったが、文学や哲学の素養もあって、森鴎外の「青年」や23歳で夭折したオットー・ワイニンゲルの「性と性格」を引きながら旅の道筋を示してくれた。ある時、Mさんからサイモン&ガーファンクルの『The Boxer』という歌を教わった。題名の通りボクサーをテーマとした歌であったが、それに付随する勇ましいイメージは無かった。むしろ歌われているのは、主人公のボクサーが貧しさと孤独に恐怖し、苦しむ様だった。故郷を思いながら、帰ることもできない。何度も打倒されながら、それでもボクサーは立ち上がる。その歌詞にMさんが、未知の土地で悪戦苦闘する私を鼓舞する気持ちを感じた。
18時半に、Mさんがロビーにやってきた。「久しぶりだね」とMさんが差し出した右手を握り返す。ロビーで少し話をした後、パッポン通りにある、日本風の洋食料理を提供する「みずキッチン」に向かった。1957年創業のみずキッチンの店内には、アサヒビールのポスターが貼られ、いわゆる「昭和の日本」があった。かつて日本人駐在員で賑わったという店内は、今は私たちの他に客がいなかった。おそらく日本人がバンコク各地に分散し旧来の日本人街が衰退したことで客足が遠のいたのだろう。総理大臣在職中に同店を訪れたと思われる海部俊樹と中曽根康弘のシミで黄ばんだサイン色紙が、店の片隅で他の装飾品と趣を異にしていた。
マカロニグラタンをつつきながら、私は2ヶ月にわたる旅の顛末を話した。Mさんは「うん。そうかい」と頷きながら、私の拙い話に耳を傾けてくれた。
「君にとって、この旅はどういう意味を持つのだろう」とMさんが聞いた。「どうなのでしょうか。色々な面で力不足を感じたので、日本に帰ったらちゃんと勉強せんといかんなと痛感しました」と曖昧な返事をした。Mさんの問いは旅の終盤にかけて、私自身が考え続けてきたことでもあった。
沢木耕太郎の「敗れざる者たち」(文春文庫)という短編ルポ集に、カシアス内藤というボクサーをテーマにした作品がある。内藤はその優れた才能から将来を嘱望されるが、内面の弱さから勝ち切ることができない。燃え尽きることの出来ない内藤の姿を著者は自身に重ねて、「燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける人間の、三つのタイプがあるのだ」(同書P159)と書く。
多くの人は「いつか」という思いを成就させることができない。そうであるならば、私には「いつか」がおとずれるのだろうか。ただの学生である私にも「いつか何者か」になりたいという思いがあった。その願望は自分がどう社会との関わりを規定するかということでもあった。旅を通じて私の役割が、おぼろげながら見えた気がした。
バンコクを離れる日、Mさんが「とうとう行くんだね」と空港へ向かう地下鉄の駅まで見送りに来てくれた。Mさんに手を振って改札を抜けた。地下鉄から高架鉄道への乗り換えを経て空港に着いた。飛行機は定刻を少し遅れて離陸した。離陸してしばらくすると、隣席の老婆が寝息を立て始めた。私もまぶたを閉じている内に眠りに落ちた。
経由地は韓国の大邱(テグ)空港だった。乗り継ぎ時間は7時間近くあったが、空港の外はあいにくの雨だった。空港内のコンビニエンスストアで軽食を探していると、女性店員が日本語で話しかけてきた。彼女の自然な日本語に驚いていると「わたし、日本に7年間、住んでいたんです」と小さく笑った。
大邱空港から日本までは2時間足らずだった。昼睡をしている内に関西国際空港に着いた。飛行機と空港を繋ぐ搭乗橋の上で足が止まった。
「この旅はどんな意味を持つのか」というMさんの問いを思い返した。私はまだ答えを見出せなかった。10分ほど立ち止まって、こういう考えが浮かんだ。
「旅の意味など今は見出せなくても良い。過去を規定するのは、これからの自分だ。私のこれからの生き方が、旅を『ただの思い出』にもするし、『人生の分水嶺』にもするだろう」
再び空港に向かう道を歩み始めた。まだ旅は始まったばかりだった。(鶴)
※今回でミャンマーのロヒンギャを追った一連の連載は終了いたします。連載はまだ続く予定です。
ロヒンギャ
ミャンマー西部・ラカイン州に住むイスラム教徒。ミャンマー政府はロヒンギャを隣国・バングラデシュからの「不法移民」とみなしていて多くのロヒンギャは国籍が付与されていない。
現地住民である仏教徒・アラカン人との争いがあり、両者の間ではたびたび衝突が発生している。わけても2017年8月の衝突は大規模なロヒンギャへの迫害につながり、およそ70万人が難民としてバングラデシュに逃れた。
ミャンマー政府はロヒンギャをベンガル地域(現在のインド東部とバングラデシュに当たる地域)から流入した不法移民とみなしている。その一方でロヒンギャは「自分たちはミャンマーで長年暮らしてきた民族であり、ミャンマー国民である」と主張する。
ミャンマー人仏教徒とロヒンギャの間で主張が対立する原因にはロヒンギャの複雑な歴史があった。ビルマ現代史を専門とする上智大学の根本敬教授はロヒンギャとは「『4つの層』から構成されたベンガル系ムスリムである」と説明する。
ミャンマー人のロヒンギャに関するイメージは1971年以降に流入した「4つ目の層」の人々である。そのために「ロヒンギャは移民であり、歴史もなく民族としては認められない」というのがミャンマー人仏教徒の一般的認識である。